台語片:台湾映画パート1

親日家が多い、台湾。私達日本人も「台湾人に親しみを感じる」、と云う人が多いのに、台湾映画を観る機会があまりにも少ない、と思われませんか? でも、台湾の映画は、今とても面白くなって来ています。例えば、『Cape-no7』(『海角7号』2008年)や、『Monga』(『艋舺』、2010年)などは、漸進的で、「中国っぽくなくて、でも、とても台湾」と云う感じです。“New Wave”も、現在のは、第三波と呼んでいいかも、とさえ思えるこの頃です。

そうなんです。台湾のNew Waveは80年代に、揚達昌(Edward Yang)、候孝賢(Hou Hsiao-Hsien)が中心になって興ります。第2波は、蔡明亮(Tsai Ming-liang)や、ハリウッド映画界で世界的に知られる李安(Lee Ang)が活躍する90年代ですから。ね、第3波です。でも、映画評論家の人たちは誰も、現在を“第3波”呼んでいませんので、あしからず。ちょっと前までは、この4人が著名な以外は映画ジャンルも幅無しで、ヒット作品も少なかったし、「聞いた事無いから、映画界小さくない? 有名監督いないんじゃない?」、「台湾は島が小さいし、自国の文化を養っている時期が無かったものね。」くらいに思っていた私です。国が小さくても、例えば,韓国や、香港(国と呼ぶと都合が悪いが)などは、アジアでも世界的レベルで映画を配給していますから、国の大きさは関係ないとしても、映画歴史も長くないから、と思った私は今回、実はこの4人の作品だけは,徹底的に観てやろう、と決意しました。が意外にも、いえ、思った通り、映画作品自体も、90年代でも満足に見つからなかったのです。80年代までは、国民党中国政策下の台湾電影(CMPC:Central Motion Picture Corporation)の影響も強く,映画自体も堅苦しいプロパガンダ映画が中心なのもあり、北米では商業ベースに発表されていない作品ばかりなのです。大変残念です。例外としては、アメリカでも、大都市のフィルムソサェティ、ハーバードや、スタンフォードなどの私立有名大学の映画祭では、観ることができますが、一般の観客には、機会はまだまだとても小さいと云えます。だから、こうして、台湾映画を紹介する機会が増えることで、外国未発表の作品への感心が高まり、いろんな作品が、過去の作品と共に、欧米で発表されていくことを望みます。

台湾の歴史を見ますと、かなり昔からネグリト原住民がいたのですが、中国に地理的に近いのに、台湾海峡が荒いので誰も近寄れず長い間中国から放置され、沖縄諸島にはもっと近いのに、お互いに全く影響されず、海賊や貿易商の基点地になっていた歴史からスタートして、16世紀から、大肚王国、オランダ占領、スペイン占領、その後は、國姓爺合戦で有名な鄭成功の東寧王国、そして清国支配。日清戦争後の日本の台湾支配は、1895年から51年にも及びます。

この支配下、日本の映画会社各社は、原住民、熱帯の島と云うエキゾチックなコンセプトで、台湾を舞台にした作品を多く製作しましたが、観客対象は日本の日本人でした。台湾人が台湾人自らのために映画作りを始めるのは、ずっと後で、住民が試聴していた映画も、日本やハリウッドに偏っていました。第二次世界大戦での日本の敗戦後、国民党が台湾に本拠を置き、今度は、中国一色、それも国民党一色、になるわけです。当時の人々は、それでも上海や、香港からのマンダリン言語の映画を楽しんでいたようです。今日2%の原住民を除いて、98%は漢民族だそうですが、内70%の台湾の人々は、時期を異なって中国本土から台湾西部に移り住んだ漢民族で、福建人。14%は客家人。残り14%は、外省人と云われる国民党と共に台湾に移って来た人々です。

外省人に対して、本省人と呼ばれた先住民こと台湾人にとって、マンダリン語はつまり外国語。当時、上海や香港で作られていたマンダリン語の映画が、外省人向けに入って来ましたが、本省人らの芸能として台湾語(閩南語)の映画が多産された時代もあったことはありました。それも、2期に渡って“全盛期”があった程の人気でした。台語片(台湾閩南語の映画)は、しかし、国民党制裁下で母国語としてマンダリン語が定着するに至って、需要自体も縮んで絶滅します。それには、1)公共での台湾閩南語の使用禁止、2)テレビ時代到来、3)カラー映画の到来、4)国民軍政府は、マンダリン語の映画製作を奨励しプロパガンダに重用した、などの要因が加わった事が大きかったはずです。低予算、多作であった50年代、60年代の香港製作の“広東語”映画に、よく比較される台語片ですが、“広東語”の香港映画は、ご存知の通り、アクション映画で返り咲き(リバイバル)するのですが、“台湾語”の台語片(台湾映画)は、二度と花咲くことはありませんでした。

60年代は、又“台湾ネオリアリズム”が登場しますが、(中国からの)台湾の意識的自立を考慮すると、リアリズムでも、“健全リアリズム”とさえ呼ばれたものです。つまり、国民党政権にプロパガンダとして使われた、も同然。多民族の“台湾人”を一つにまとめて行く役割を果たしていた、とも云えるかも知れません。イタリアの40年代の“ネオリアリズム”の影響が強かった、と云われますが、“台湾社会には、悪は存在しないのだ”と主張する台湾電影映画とは裏腹に、2.28事件から起こった白色恐怖(White Terror)に襲われた台湾社会は、威厳令が引かれた1949年5月19日から、なんと、38年と57日間続きます。威厳令が解除されるのは、1987年、7月15日でした。合計228件もの事件が発生。14万人の、国民党を批判したり、反感を表したと疑われた台湾人が、刑務所に入れられたり処刑された、と云われています。“政治高圧統治”が、こんなに長く続いた国は、非常に珍しく、シリアに継いで2番目だそうです。映画界に影響を及ぼさない訳にはいかないでしょう。言論の自由も、1987年まで考えられなかった訳ですから。興味深いことに、そんな威厳令の下でも、良い映画が作られていたことです。

“New Wave”は、威厳令が解除される前に、生まれています。“Taiwan New Cinema”と呼ばれていますが、第一波は、1980年代初めに起こります。候孝賢(Hou Hsiao-Hsien と読みます)、楊紱昌(Edward Yang)、監督、脚本家、俳優でもある吳念真(Wu Nian-zhen)などが中心でした。この“動き”は、90年代に入る前に一度下火になりますが、90年代にぶり返し、蔡明亮(TsaiMing-liang)と、李安(Ang lee)などの監督達を中心に、またもや昇華する訳です。
<つづく>

バンクーバー新報:2011年、8月4日