台湾映画パート2:台湾新電影

80年代初頭“Taiwan New Cinema(台湾新電影)”の動きは、台湾映画史の一番大きな出来事であったはずです。国民党政府の管理下での映画界です。いくらギンギンのプロパガンダとは違う“健康写実”映画、と云いましても、いつも説教的なハッピーエンドの映画ばかりでは、ハリウッドや香港からの映画に圧倒され、飽きられてしまうものです。だから、特に若者が台湾映画離れになりました。結果として、“台湾新電影”は、映画界を金銭で潤した訳でもないし、新しい映画界を生んだ訳でもないし、ハリウッドや香港からの多数の映画流入を遮断出来た訳でもなかった。ですけど、私は、必要な動きであったと感じます。

台湾は中国か、と云う質問をあえてしないで、むしろ、戦後の新植民地政策(皮肉な言い方ですけど)が、資本主義が、どのように台湾を変え、どのように影響して来たか、を台湾映画に見て欲しい。その方が、80年代、90年代の台湾映画のNew Waveが興味深く映ると思います。すでに30年が経とうとしています。独断と偏見で解釈すれば、台湾の映画は、他の映画界に較べ、コメディタッチが強い恋愛映画、アクションよりは、心情を表現する映画が好まれるようです。ハリウッドでも高く評価されるアメリカの大学映画科出身の李安(Ang Lee)などは、私は当初“台湾の監督”と呼ぶ事さえも躊躇ったのですが、今回彼の“父親へ捧げる”3部作 の2作品、『The Wedding Banquet』(1993年)、『Eat Drink, Man Woman』(1994年)を観直してみて感じたのですが、彼の中国語作品は、非常に台湾人独特の笑い、コメディセンスに溢れていると云うことです。意外な発見でした。華人でも、香港や、中国本土の監督では、到底生み出せないと思われる、独特の“台湾の父親”だったのです。プロデュース、かつ脚本を一緒に書き上げたのは、ユダヤ系アメリカ人のジェームス・シューマスでした。なのに、そこには、“台湾人の父親”像が浮かび上がっていました。台湾独特のユーモアと共に。

さて、ハリウッドや香港映画に台湾自国内の市場を奪われ、マンダリン語の南アジア市場をも、奪われた台湾映画界が取ったステップをお話しましょう。どうしたら、香港やハリウッド映画に魅せられ、台湾映画に見向きもしなくなった若者たちを取り戻す事が出来るか。それには、今までとは違った映画製作へのアプローチが当然必要とされ、競争力のある高い技術や映画界の才能が必要とされたでしょう。また、商業性のバロメーターとして、国際映画界への参加が奨励されたはずです。ハリウッドや、香港の映画に対向出来ない映画が、商業的成功を納めるとは考えられませんから。国民党直営の中央電影公司(CMPC)や、情報局(GIO)ら自らが、大改革を起こすことを期待するのは不可能に近いでしょうが、ともかく、彼らは“自ら”、“規制緩和”を産み出さなければならない必要に迫られた訳です。

最初に承認したのは、中央電影公司の“新人政策”でしょう。若手の人材を起用することで、学歴有る大学生や専門職の若者視聴者層を満足させると言う魂胆です。それには、外国で教育を受けた人材:揚達昌(Edward Yang)、萬仁、柯一正、などの他、技術や、撮影、編集などの技術者たち、脚本家の小野(Xiao Ye)や、候孝賢、陳坤厚、王童 などの監督達も、招致されて中央電影公司(CMPC)に就職しました。1982年には、政府情報局(GIO)が、映画を娯楽事業じゃなく、“文化事業”と定義付けることに依り、税金や、関税を下げ、補助金プログラムの対象にして、検閲も緩和しました。又、“小成本、競製作”なるモットーも唱えられます。つまり「少ない資本で、高い製作」を目的とする。台湾だけじゃなく、香港の独立制作者や、合作製作を奨励する動機にもなりました。1983年になると、検閲緩和が具体化され、それまでは、製作前に脚本の提出を強制され国民党政府の厳しい監察を受けなければならないために、時間を取られる上に、多くの拘束が生まれましたが、その事前の脚本検閲が省かれました。それでも,学生達が地元製作の台湾映画を見に来てくれないので、それじゃ、とばかり、逆に映画を大学に持ち込んで、大学映画祭を開き、学生達に無料で観せた、そうです。こうして、アジアパシッフィック映画祭への出品まで持ち込んで行く訳です。1982年のシンガポールでの映画祭では、1品も評価されることなく終わったのですが、情報局は、翌年台北で開催される同映画祭に賞を得た映画に賞品、賞金を約束し、それが、台湾映画界を奮い立たす訳です。と言いましても、1983年に純粋に台湾中央電影で“新人”で製作されたのは、立った一本,『The Sandwichman』で、他4本は、香港や独立資本の合作映画だったそうです。当初、人気の豪華絢爛の映画、従来のプロパガンダ(?)ミリタリー映画を製作して行く為の資金作りの目的が大きかったようです。それでも、台湾映画の“New Wave”=“台湾新電影” 時代が到来しました。

結論から言ってしまえば、80年代、90年代の“台湾新電影”映画が、今日、海外の商業市場に出廻っていない事が、残念で仕方がありません。

残念ですが、たとえ破格な金額で台湾映画集を買われたとしても、観られる映画は、かなり限られています。ですが、バンクーバーは、アジア人口、特に華人の人口が多いですので、アメリカやカナダの一般観衆を相手にする市場よりも、これらの映画を観られる可能性はずっと大きいかも知れません。例えば、『The Sandwichman』(1983年.萬仁、候孝賢、曾壯祥のオムニバス映画)は、台湾のNew Waveを理解する上に大切な映画ですが、観ることも安易に出来ない状態です。この映画は台湾の映画史に“台湾新電影”が生まれる、非常に大きな意味を持つ事になった、作品だと、私は考えます。

この短篇3部作/オムニバス『the Sandwichman』は、時代を60年代に設定したことが、誰もが暗に認めていた台湾の“新植民地主義”を反映してしまうことになり、“林檎皮むき事件”(『削蘋果事件』)を起こしてしまいます。これは、プレス、評論家、そして、最後には一般市民を味方につける事件に発展し、一体となって政府の検閲制度と真っ向うから闘う結果になりました。この映画は、非常に明白な事実、「国民党政権は、“地元民”こと“本省人”を見下していた」と「“本省人”は、権利の補償や経済的な機会が与えられなかった・奪われていた」、と云う微妙な問題を提示してしまった上に、同盟関係にあった台湾とアメリカの関係を“新植民地主義”と皮肉った表現で、これは、又、同時に、両者間の僅かな裂け目を暴く事になってしまうのです。林檎は、この時代、高級輸入品であったので、シンボルとして使われています。“林檎皮むき事件”ですが、中央電影公司(CMPC)の検閲事件のことです。

この時代に、小野(xiao Ye)と台湾を代表する脚本家(俳優でも、監督でもありますが)の吳念真(ウ・ニエンジェン)も同時期に頭角を現し、中央電影公司(CMPC)に入社し、他の多くの“Taiwan New Cinema”の若い騎士たちと、この動きを導いたこと、を付け加えさせてください。

続く>

バンクーバー新報:2011年、9月8日。