台湾映画パート6:蔡明亮

台湾の監督を紹介して来たが、蔡明亮(ツァイ・ミンリィァン)は、マレーシアに生まれ育ち、台湾の大学に入学する20歳まで過ごしている。彼は台湾の永住権を持っているが、帰化した“台湾人”ではない。例えば、ハリウッドで活躍の李安監督を、ハリウッドの監督と呼ぶべきか、ハリウッドで活躍する台湾の監督と呼ぶべきか、意見は別れると思うが、ことに蔡明亮にかけては、台湾に住んでマレーシアに住んでは居ないし、マレーシアで映画製作をしている訳ではないから、やはり、台湾の映画監督として紹介したいと思う。彼の立場は、台湾に住むゲスト/異邦人である事も含め、映画製作に置いても、非常に特殊な地位を築いていると思う。

彼自身、「観客にはゲイ映画だと想って観に来て欲しくない」と公言しているが、
彼の映画は、彼自身がゲイである故、台湾が、ヘテロだけの社会ではなく、ゲイやバイが共存する社会として描かれている事実は避けられない。特種な社会として「ゲイ監督が作った主人公がゲイで、ゲイの視点で描かれている」と、それだけの理由で彼の映画を避けてしまうのは、あまりにも残念だ。彼の映画が「ゲイ主人公の映画」(ゲイ映画って云うと、アダルトゲイ映画に聞こえるので)だけに留まらないのは、彼の才能に依るところが大きい。「映画は芸術だ」と語れる映画監督は少ないと思うが、彼は数少ないその一人であると思う。「ショッキング性と、破壊性だけが残る」、と云う人もいるかもしれないが。映画背景や、サブジェクトが“一般”の日常性からかけ離れる為、家族向けの映画とは決して云えないが、彼が言おうとしていることは、ゲイやバイやヘテロの区別から超えたところにあるもので、ユニバーサルな提言だ。ただし、彼の作品の中には、露出度、性描写もアダルト映画並な作品もあることを記しておきたい。

彼は、彼の分身、李康生(リ・カンシェン)を主役に、20年以上映画を制作して来た。「リ・カンシェン無しでは映画制作をしない」、とまで蔡明亮は明言している。李康生はアーケードで働いていて、蔡明亮にスカウトされている。蔡明亮は当初、1作目以降は李康生を主人公に映画を製作して行くつもりは全く無かった、そうである。 李康生があまりにも演技の素人だったことにも原因があるそうだが、2作目『The River』(1997年)は、実は李康生の首の奇病から構想が湧き、彼と親しくなるに連れて、俳優のアクティングとはいかなるべきか、自分なりの“映画作りの意味”などを、ゆっくりではあるが、発見して行った、と発言している。李康生は、蔡明亮 の分身としてのイメージが強すぎるのか、他監督の作品にはあまり出演していないが、自ら映画3本を監督している。2作目からは、従って李康生(蔡明亮の分身の) が視る社会、世間のマイノリティー(ゲイも含む)外人としての視点からの台湾が描かれているのである。

父親役は、苗天(ミィヤオ・ティエン)、母親役は陸弈静、主人公が誤って関係を持ってしまったりするヘテロの女性達(陳湘蒞、楊貴媚)なども、初作から大概同じ女優、俳優を起用している。ゲイの父親役の苗天は、70年代に活躍したカンフー映画の大スターであると共に、演技派俳優として有名であった人物である。2005年に亡くなっているが、外省人(中国からの移民)、元国民党軍人、“隠れゲイ”などの側面を持った父親を4本で演じている。その演技力も高く評価されている。母親役の陸弈靜(ルー・イージン)も『Rebel』の時はまだ32歳の若さで、迷信や、神懸かりなどを信じる本省人の母親を演じてから、合計6本の蔡明亮の映画に出演している。主人公が恋してしまうのは、常に女好きなヘテロの男だ。このヘテロの男(aka蔡明亮の究極の理想男性像?)を、陳昭榮(チェン・ザオロン)と云う俳優が演じている。彼も合計7本、蔡明亮の作品に出演している。彼は1980年代始めから活躍する俳優で、現在はトークショーのMCまで勤める人気者らしい。

“ゲイ主人公映画”、“ゲイ映画”に蔡明亮 の作品が留まらない、と云う理由は幾つか挙げられるが、“俗”と称して評論家達は言及している。余所者、外人だから気になる視線で描かれる台湾に、労働者階級の庶民の生活背景、政治的背景、国民的背景(外省人、本省人)、民族的な風習、儀式などの要素が色濃く刻まれているからである。観客として彼の作品を観ると、そのディテェイルの細やかさに驚くであろう、と思う。田舎くさい、俗人らしい(教養の低い下品な)、都会的とは全く逆の地方的、とも云えるかもしれない。その“俗”に対する尊敬も、 彼は忘れてはいない。又、余所者が観た台湾だから、彼の映画の各箇所に、失われそうな台湾がいっぱい納められていることに気づくと思う。自らの労働者階級の子供時代を被せているのかもしれない。哀愁まで感じられる。ところが問題解決法はショッキングで破壊的なのも特徴だ。彼の映画の特徴に、アジア映画では、あまり討論されないらしい“ camp”と呼ばれるスタイルがある。彼の作品では著しいものもあるので、ちょっと話をしよう。“camp”と云う言葉には 1)ゲイの女っぽい、なよなよした仕草、2)滑稽なほど気取った、と云う意味があるらしいが、「おおげさ、劇場的、パロディ、女装した(時にゲイが)男達が繰り広げるショーのような、雌犬が吠えるような感じ(?)」が大きな特徴だ、と云われている。例えば、『ピンクフラミンゴ』などで著名なJohn Watersや、Andy Warholの映画スタイルとか、アメリカ人なら誰でも知っているDivine(ジョン・ウォター映画の主役)、 Rupaul、 ピアノ奏者Liberaceや、本人はゲイではないが女装したTVキャラクターのDame Edna Everageなどの名前が上げられるだろう。歌手ベット・ミドラーのステージなども、“Camp” と言われるスタイルだそうだ。蔡明亮の作品の中で、特にこの傾向が著しいのは、『The Hole』(1999年)と、『The Wayward Cloud』(2005年)だと思う。

『Rebel of the Neon God』(1992年)  『Goodbye, Dragon Inn』(2003年)
『Vive L’Amour』(1994年)      『The Wayward Cloud』(2005年)
『The River』(1997年)       『I Don’t Want to Sleep Again』(2006年)『 The Hole』(1998 年)       『Face』(2009年) 
『What Time is it there?』(2001年)
               
                 
バンクーバー新報:2012年2月9日