台湾映画パート8:李安 (2)

中国本土、中国圏、北米在住の中国人達にとっては、『Lust, Caution』(2007年)の方が、遥かに意味深く、多分、5年近く経った今でも、ショッキングな中国語(マンダリン語)映画だったのではないか、と思います。実際映画自体より、セックスシーンの方が話題になってしまい、旋風は巻き起こしたが、正当な評価を受けられた作品にはならなかったのが、残念です。

正確に云えば、この作品での性描写は、欧米では過激ではあっても 中国人ほどショックを受けるような類いのものではなかったはずです。が、米国でも家族向けに上映するには到底無理で、NC-17(No Children Under 17)の指定を受けてしまい、せめてR指定(一般観衆向けにはR指定でも不都合)にするように要求されましたが、それを拒んだ事でも分かるように、李安監督は中国人だけじゃなく、世界万人に理解得られる男女の“性愛”(エロスではなく、性的関係から生まれる愛)を描きたかったのだ、と思います。

アメリカでは思ったように数字が伸びず、収益の面では残念な結果となりました。そればかりではなく、映画自体も正当な評価を受けていない、と私は思います。日頃から「アメリカ人に一体何が受けるのか、分からない」、と怪訝する私ですが、この作品、私は高く評価しています。ここまで、大胆に性愛を描きながら、ただのエロ映画にはならないで、人間の奥深い感情を表現している傑作、だと思います。「時は大日本帝国陸軍率いる傀儡政権下の1939−1940年、上海。女性工作員が,政府高官の暗殺を企てる」、と云うシンプルな粗筋を、李安と、ほぼ全ての李安の作品で脚本家とプロデュサーを務めているJames Schamusが、ストーリーを掘り下げ、大幅に展開して加筆しています。事実、Eileen Chang(張愛玲) の原作を有名にしたのは、映画『Lust, Caution』でした。

「『CTHD 』と『Lust、Caution』2本の“ハリウッド”映画監督が、実はアメリカ在住の中国人で(台湾人だが,中国の見解では台湾は中国の一部)、資本はともかく、中国語の“ハリウッド映画”が中国圏に限らず全世界で上映配給された」。この事実は、間違いないでしょう。李安の映画が(特に『CTHD』)、中国圏での映画製作の“やり方”に影響を及ぼし、映画配給システムが90年代後半から大幅に変わって行きます。この一例が、中国が誇る映画監督、張藝謨(Zhang Yi-mou)、Jet Li出演の『Hero』(2004年)です。俳優、撮影製作軍をアジア各地から呼び集め製作され、最終的には宣伝、配給はハリウッドに一括されて、世界各地で上映される。又、中国圏の才能豊かな映画人が、アメリカの映画、テレビ界で知名度を上げ始めるのも、この頃です。

「ハリウッドで仕事をしていない人は“主流”ではない」という認識があるらしい。否定されても、ハリウッド映画=世界のポピュラー映画と云う神話も存在する。英語(言語)の問題でとか、適当なアジア人役が無いとかで、アジア人のハリウッド進出は、容易いことではなかったのです。しかし現在は、何も上手な英語を話さなくとも、自国で映画作りを続けていれば、ハリウッド進出が可能になった訳です。アメリカのTV界でも活躍するジャッキー・チェンや、サモ・ホン などは、アメリカ人であるブルース・リー並に、誰もが知る名前になりました。

李安は、欧米人が“中国的”と認識しているイメージは、「実は戦後に香港や台湾で製作された武狭映画、功夫映画の数々が作り上げた」と、言っているらしい。『Crouching Tiger & Hidden Dragon』(2000 年)は、確かに、今までの武狭映画とは違いスロー過ぎるくらいのストーリー運びで、しかも優雅なスタイルの映画です。李安はだからノームを崩した訳で、「自分の武狭映画は表現が違うだけで、間違っている訳ではない」、「武狭映画はこれが正しい、なんて云うのは存在しない」と言う訳です。固定観念があるのはつまり「詰め込まれた知識」であり、「表現方法は自由なはず、自分の武狭映画も正当だ」、と云っている訳です。『Lust、Caution』にしても、中国圏でのモラルを揺すぶった点では類がない。ショッキング度数大で、ひょっとすると中国政府をパニックさせたかもしれません。映画の舞台は上海です。李安は、つまり固定概念を崩す監督。ノームも崩せば、挑戦もする。それは又、李安は自らの映画作りで、“Chinese”、”Chinese-ness”と云う概念に、宣戦布告をしているのだ、と云う評論家もいる。中には、「ハリウッドを利用して“中国映画”を有名にした監督」、とさえ云わせています。

最後に、この映画監督を身近に感じさせる話をしましょう。李安は、台湾の外省人二世である。父親は台湾でも一番、二番と云う著名な国立高校の校長で、李安もその国立高校に通った。校長の息子だから入学許可される高校ではない。父親は、李安に大学教授になって貰いたかったらしい。が、大学入試に2度も落ち、父親をがっかりさせた。最終的に現国立台湾芸術大学に入学。その後李安はアメリカに留学し、最初は演劇学を、ニューヨーク大学大学院では、映画製作を選考した。言葉は悪いが、李安は「あまり出来の良く無い息子」だった訳です。期待もされず、諦められていたかも。

第一作品『Pushing Hands』から『CTHD』には、父親の象徴的な存在として、台湾の俳優Sihung Lung(郎雄)が登場する。父親と息子の対立関係は中国だけではないが、初期の李安の映画では儒教の「父慈子孝」が、映画の軸になっていたような気がする。だから俳優、Sihung Lung、が亡くなってからの彼の映画は、舵を失った船のように、何処とは無く行き先が定められないのかもしれない。そして大作を作るようになると、得られるものばかりではない、と想像出来る。小話の面白さは失われる。特にハリウッド映画は、芸術映画とは作り方からして全然違う。これは憶測でしかないが、ジョン・ウーも香港からアメリカに、そして最近はアジアに映画作りを移しているように、李安も又、アジアに活動の場を移す可能性が無いとは云えない。あるいは、これからもアジアとアメリカで二足のわらじを履き続けるかもしれない。どちらにしても、私たちアジアンの声を、アジアの思想を、代弁してくれる監督であることには間違いない、と思う。

バンクーバー日報:20012年 4月5日