『盲山』/『 ブラインド マウンテン』(2007)

 台湾生まれで日本在住の黄 文雄(コウ・ブンユウ,日本語読み)の「中国人の本性」や、上海生まれの中国人、やはり日本在住の莫 邦富(モー·バンフ)の「蛇頭/スネークヘッド」などの読物、あるいは、今まで新聞で読んだり、ニュースで見た事柄が、実際に起こっている事だと実感として認識するのは、非常に難しいと思うのに、このように映画の形を取ると、瞬時的なニュースより、真実を長く生かしておけるのですね。国外での、公共の認識度の向上や人権尊重の運動を、映画が肩代わりしてやってくれている。最近の中国映画の中にも、中国政府に嫌われても、“話さずにいられない”欲求が強いものがあり、その声がちゃんと私達に届いて来ています。

 監督の李楊(Li Yang)は、アジア各地で増えている、海外でも教育を受けた人物で、ニューウェーブに大切な要素です。彼らが新しい“流れ”になっているのは、自然ななりゆきです。彼の最初の映画は、『ブラインド シャフト』(盲 井)、中国本土で放映禁止になりました。二人の炭坑労働者を主人公に、危険な仕事場、炭坑に集まる人々、死亡した労働者の賠償金目当てに、殺人を繰り返す労働者達を描いた作品です。ドイツでは、ドキュメンタリー映画を撮っていた彼なので、手持ちカメラでの撮影、自然な音声の録音などの撮影技法が使われていて、夢を与える映画作りとは程遠い、現実的なアプローチのかたちとなりました。なによりも、炭坑に働きに出る地方からの労働者を扱っているのが、時代を反映していて、良い作品と言えます。

 中国政府から干されていた彼が、不可解にも、ある日突然、彼自身にも不可解ながら2作目を製作する許可が降りて、この『ブラインド·マウンテン』(盲山)を製作しました。大学を卒業したばかりの女性が、就職難のため仕事が見つからず、漢方薬の仕事を見つけて来て、弟の教育費の足しになるようにと、中年の男性の上司と、もう一人は彼女と同じくらいの年齢の女性で(彼女と同じ立場、身分と思わせる言動ですが)、と3人で連れ立って、山奥へと旅して行きます。目的地に着いて、お茶を出されて、目が覚めると、彼女は一人で、同伴して来た二人は消えています。財布も身分証明書も紛失しています。そこで、だまされて農家の嫁にと売られたことを知る訳です。1990年代の始めの設定ですが、女児を買って、小さい時から、嫁になるべく教育して、将来息子の嫁とする風習は“童養媳”(トンヤンシー)と呼ばれ、中国の農村では根強く、古くからあるそうです。中国の“一人っ子政策”は、“殺嬰”(嬰児殺し)を生み、“婦女誘拐”や、“人身売買”、“売春”などで中国本土内では事足らず、台湾、香港まで波紋を呼んでいるそうです。この映画が国内で、あるいは、外国で放映された事実自体、不思議でさえありますが、もっとも、カンヌ映画祭に出品するために、(中国がこの作品を自ら選別したとは思えないが)中国政府は20以上のカットを強要したそうです。ラストシーンも幾つかの“終わり方”を用意し、撮影しました。時代設定も1990年代の始めとしていますが、原作でも、20年経とうとしている現在でも、何も変わっていないと言う事であり、よって、カットされた場面が、何を意味するのか、想像出来ます。しかしながら、こうして、この作品が海外に紹介された訳ですから、明らかに、中国の中でも確実に変化が起きてる、と言うしか無いでしょう。
 
 主人公の女学生を除いては、皆素人を起用したそうです。キャラクターの描かれ方が貧しいなどと、評されていますが、確かに硬さが見られるものの、演技をしない(あるいは、しているが、訓練に欠ける)存在感は強烈です。肌は皆、日に焼け浅黒く、革のようで、どの顔も深く皺が刻まれています。痩せこけた小さな体。真っ黒な爪先。歯並びもひどい。生身の人間が、確かに存在している事に、圧倒されてしまうでしょう。演技なんて、わざとらしいなら、しなくていい。彼らの存在事態が、すでに、見繕う必要の無い現実そのものなのですから。勿論、私とは違って、違和感を主張する評も多いのは事実です。女性を、子を孕む家畜ぐらいにしか見ない農村の生活、手に入れた妻をあたかも豚を飼うように扱って来た人達にとって、一人の売られた女性などは、珍しい事ではなく、日常茶飯事の“生きて行く事”の一部でしかない。が、もっと胸を痛めるのは、村全体がそうなのではなく、多分、中国全体がこう言う状態じゃないか、と思わせる、縮図を見ていると言う観念を、私達が自覚するからではないでしょうか。それと対照に北方の寒村の自然の美しさが、胸に沁みます。こんなにも美しい自然と共存する農民。女の子や若い女性がいない山奥の村。アング・リー(李安)監督の初期の作品の撮影を担当して有名な、リン・ジョングがカメラマンです。監督のドキュメンタリースタイルは健在で、音楽も必要程度にしか入っていません。別のサブキャラクターは全く描かれていないし、クローズアップも少なく、ただそこにいて、目撃したというような形で撮影されています。

 中国は今や、“向銭看”(金銭優先)に成り果てた、と嘆かれるか、どうか、まずは、この作品を見て頂く事をお薦めします。近代化が進んでいる中国は、その過程で、伝統や民族意識、価値観、罪悪の観念などを無くしてしまったのでしょうか。私欲や私益のためだけを考える民族に成り果ててしまったか、果たして、中国はアメリカのように大国に成り得るのか? そんな疑問の答えさえ、この映画は示唆しているようです。

バンクーバー新報:2009年、5月28日